今日は水元公園へ行ってきました。
水は豊かに湧き茂り、樹木の色彩もこれから芽吹く植物もあおあおしていました。
公園を散歩しながら気が付く事がありました。
わたしは肉眼で捉えるのが苦手なんだな。という事。
若干の色弱ではあるんですが、あまりにも目の前にある自然は膨大すぎて捉えられていなかった。
地球の色は何色?太陽の色は?と、聞かれても戸惑うわけです。
眼鏡を作る際の視力検査でも、staffのお兄さんから「ガッツで観てますよね」と、
検査しながら言われた事がありました。
「C」とか目でキャッチしても、それに照準を合わせているのか、
読み取りに数秒の時間を要するのか、わからないですが、観てから言うまでのちょっと時間があるそうです。
で、ガッツで観ていると(笑)
アニマンダラさんのアリスカルディアでの[4]を持つわたしは、
ウィアクシアの原型と似ているという話がありました。
目を持たずに幾つかの触覚で、
物体を認識して読み込んでいる古代生物だそう。
その事と今日の肉眼の不慣れ、が、とても腑に落ちました。
観るより、
聴こえる方ばかりに意識が行っているんですね。
自分の足音や、葉っぱが風に揺れている音、水の音や、
鯉のぼりに当たる風の音、花の音など。
暫く意識的に自然に触れるという事をしていなかったので、
地球の音を想いだしたようでした。
目を使う事があまりなかった生き方が多かったのかな(笑)
お蔭で舗装された道を歩いていると、マラソンしているヒトの足音や、自転車の音、
家族の足音が背中から刺さるくらい痛くて(笑)
アスファルトを辞め、草原の道を歩く事にして散歩していました。
通常では気が付かなったけど、身体は過敏なんですね(笑)
下町の着地感と、自然界との着地感は深さが違った。
今度は自然界への着地ですね。
いろんな階層の音が奏で合って、
音のグラデーションが幾重にもぶつかりあっている音の集積場。
音の反射の世界ですね。
そんなところに肉体を維持しながら、
いろんな世界と交流し合っていると想うと、
本当に生きていると想えることは凄い事です。
そう想った時に、ひとは本当にもろいのかもしれない。と想えました。
消滅と誕生との狭間でいったりきたりしているようであり、
少しでもズレてしまえば直ちに消滅の方に転んでしまえる。
各々が観ている目の前の世界。
同じ映画を観ていても、シェアなどしていると「同じ映画を言っているのかな?」と想う事があるように、各々の解釈の仕方や価値観や文化の違いで、
同じものでも違うモノに観じる事がある。
きっと本当の意味というか(笑)
根深い感覚的なところでは地球の色も、
生態も本当に知らなかったんだなわたしはと実感したのです。
そう想った最初のきっかけは墨絵でした。
植物も動物も描けなくて、今まで勝手に描いていたけど倫理に反した描き方(笑)
例えば子供達が鮭の切り身を観て、
それが本体と想っているという感覚に近いのかもしれません。
土の上を歩きながら土から離れる機会が増えると、
生命の本質というポテンシャルは弱体化して往く。
ラピュタのようですが(笑)
けっこう離れていたなと想いました。
意識を定めると一体化する。
一体化する事が、飲み込まれてしまうという概念になっていたようです。
地球を歩く。
意識的に大地や樹木、雲を味わって観る。
雲の世界、植物の世界、水の世界、土の世界、風の世界、
光の世界の関わり方がそれぞれの成長を促している。
いろんな生き物が姿を顕しやすい場所なんですね。
地球はでかい3Dモニターという感覚でした。
光の具合でいつもは出ない色が誕生しました(笑)
萌えているようです。
コフキトンボ。久々にテントウムシも観れて嬉しかったです。
鐘があるなと近寄ったら、松浦の鐘(長崎)との関連があるようでした。
気になるモノって何か繋がりがありますね。
狛犬右には小さな大根が。
これは卵子と例えました(笑)
神社を出たら空から天使の梯子が。
上手い事撮れませんでしたが、
このあたりは旅行気分になるくらい水と緑がいっぱいでした。
ねーこーーー!!きゃわいい💓