わたしは一応小心者なので、
ブログに上げる内容を躊躇してしまう事があります。
感覚的な話や空白のところから、何か読むみたいなとこを躊躇しています。
人間的な感覚で、
閉じているところがとても反応してしまう。
点の自分と、
点が集合して無みたいになっている空白の部分。
文字にする余計にわからなくなってきました。
さーせん。
郵送物を投函して、我が家の裏側にある神社へ。
銀杏の樹や、神社と空とのマッチングがとてもいい場所。
神社の前には不思議な三角州もあって。
ツリーサークル、ストーンサークル、
ボタニカルサークルみたいになっています。
参拝し終えて振り返ってみたら、
灯篭の中に五芒星の光がパッとつきました。
時間を顕した五芒星の光のようでした。
終って往く時間、成仏した五芒星の光。
光か、炎か、電気か。
よくわからなかったけど、身体世界に宿っていた時間、空間みたいなものが、
終焉したような最後の別れ的な感覚も在りました。
例えば死を予期して家を離れて往く動物が、
最後に振り替えるような絵面の五芒星の光。
感覚を取り戻す事を想いだしたようでもあります。
今まで何か人並に頑張ろうと想っていた(笑)ところがあって、
昨日、今日ともうわたしは頑張らなくていいんだなと気が付いた。
本当に不器用なのでわからない事ばかりあるし、
出来ない事もまだまだいっぱいあって。
本当にヒト並みに並びたいという劣等感が根底にあったんだなという事です。
気が付いていても、見積もり以上にその劣等感は思考と感覚に癒着していた。
もちろんヒト並みなんです。
ご飯も炊けるし、朝も起きれるし、電車にも乗れる、
道がわからなければヒトに尋ねるとかもできますし。
またその劣等感はわたしのモノではないという事も知っている。
劣等感の中には、
時間とか性別とか時代とかいろいろと含まれています。
墨絵教室に行くときや、組紐教室行くときなんて毎度浮上してくる代物です。
あってイイものなのに、時々いらいらとする事もある。
そういったモノが、
あの五芒星の光の中に移動して消滅したんではないかと想いました。
地上で観る不可思議な事、人類という不可思議なイキモノ。
人生とか寿命とか、死の裏側はなんなんだろうとか。
(死の裏側が生という反対の意味ではなくて、本当に裏を探している(笑))
伝播して往く情報、交流を通して記憶が記録になって顕在化する。
またそれが顕在化したらそれらは変化して往くモノ。
自分の中のあたりまえの世界に、
降りて来ている最中なのかもしれません。
人間とか肉体とかの不思議な電動力とか、伝達力とか、
肉体側が持つ観察力とか洞察とか。
肉体とは違う本体の機能性と、肉体(身体)そのものが持つクオリティーを今までよりも容認できるようになってきたのかもしれません。
観えないという意味と、無というモノが顕す意味。
観えると言う意味と、在るというカタチを顕す意味とか。
複雑な言い回しになりましたが、
全部を信頼して居ないと、無も有もある意味どちらも存在して居ないのだなという事。
無も有も使えないモノとしてただ漂って居る。
無も有も一体化させると、
潜在的要素が材料として活き活きしてくるという事。
蓋をしていたところがサーッと開いてくるようでした。
潜在意識と命名されている、
観えないもう一つの世界の使い方。
人間はただ本当に自分の使い方を知らないだけなのかもしれません。
と痛感した次第です(笑)
人間的な部分を耕しながら、創造力を伸ばして往く。
二つの作業を通して成長が結ばれる。
いろいろな話も真実か否かを求めてしまえば偏った世界になります。
真実か否かが答えではないからですね。
一階をクリアしたからといって、
それで終わらない「続き」があるのがこの世の遊びのような気がしました。
イメージは創造ブツの種ではあるけど、物質界でしか育たたないモノで、
イメージをの続きを観たい場合は地上で育まなければ続編が顕れない。
イメージを追及するとどんどんリアリティーが増してきて、
リアリティーの中に居るはずなのに何か幻想的。
不思議です。
墨絵の先生が言っていたのですが
「完成度が高いと幻想的だ」と言っていたのを想いだします。
幻想も現実も同じ立体世界の中にある。
分けるモノではないんですね。
今日はこれがとても腑に落ちました。
混ぜるな危険ではなく、混ぜた方が安全に働く。
なんか良い事言ったような気します(笑)
うちの裏側の方にある神社。
狛犬と松が似合って居ます。
スピンな雲がいっぱいでした。