墨絵教室に入って今年で4年目を迎えていた。
今日はお手本をして戴くときに、可笑しいくらい先生の手本帖に見入ってしまい、
強烈な目つきと姿勢になっていた(笑)
そんな姿を観て先生が「コワーーーイ!」と言いながら、
「キメタ!ユニバース!」と言って手本帖を仕上げてくれた(笑)
(椿の手本で、椿を挿しているわたしの花器は地球になっていた(笑))
4年目になって「観察」という観る姿勢が出来てきたかな、とちょっとだけ想えた。
先生の手本帖を観ていた姿勢ではなくて(笑)
ちょっとだけだけど観る態勢が出来てきたかと、自分の中で幸福感が沸いた。
席について、手本を観ながら描くときに、
描くモデルの構成みたいなものを考える事をしていた。
〇の集合体とか、△の集合体とか、□の集合体で、
何個あるかという積み木のようが捉え方。
そう想うと、みんなどんな風にとらえて描いているんだろう。
みんなが上手に想え、みんながスラスラと描いているのを観ていると、
素直なヒト達なんだなと想える。
ただわたしは、本当にナマモノが苦手なんだなと心底気が付かされる。
動植物をフォーカスするチカラ。
繊細過ぎて、可憐すぎて、
堅物のわたしの感性では追いつけない地球はナマモノ集団。
いつだったか描いたヒョウタン。
妖怪チック。
ナマモノより、観やすい。
いま気が付いたけど、
ナマモノは観られている感覚するから苦手なのかもしれない。
直視できない事や、どこを観ていいかわからないとか。
目が合うと恥ずかしいとか(笑)
イコール生命力と同化してしまって、死にそうになる(笑)
ヒョウタンとか個体のモノは、まだ化けているような気がするから観やすいのかも!
とめっちゃ自分的に大きな発見に繋がっている。
個体は化かしているよう。
でもナマモノは全体で観られている感が出ているからかな。
植物達も観られている事に気が付いている。
だから存在したんだけど。
そこを今日は想いだした。
帰りにK澤さんと寄った福寿司さん。
ここの店主がめっちゃかっこいいのです。
お爺ちゃんだけど( *´艸`)
味も美味しい。
以前ひとりで入ったときにお爺ちゃん店主が、
わたしの図面ケースを観て「絵を描かれるんですか?」と尋ねてきた。
「すぐそこで習っているんですよ、墨絵を。」というと、
お爺ちゃん店主も、昔はわたしも描いていました。
また今度、観せて下さいね。と。
生身の会話は嬉しい。
お爺ちゃん店主の眼差しも優しい。
それは生きているととても嬉しい事で、ご褒美のような気もするし、
リアルという時間を抽出できた気分にもなる。
栄養ですね。眼差しは。
で、観られているという事は嬉しい事なんだなと想える。
気が付いてもらえているからですね。
あ!わたし居るんだな。ここに。って😜
時々知り合いとすれ違ったりするけど、あまり声をかけられない自分が居ます。
「あのヒト、わたしの事覚えているかな。」と想って素通りしてしまう小心者。
あとは意外に話のが苦手でもあるから、そのへんを端折ってしまう。
何かを通して現在を楽しめるって、おもしろい事だ。
少しでもなにかできるようになると、おもしろい事だ。
知らないことを覚えて行って、出来るようになって発展させたり、
応用編みたいに派生してゆくと脳の色が変化しているように想えるし、
回転数上がっているかも!と調子よくなる。
調子をよくする術を知っていると、身が楽です。