一応、長崎出身とあって産土は諏訪神社。
元々の実家は諏訪神社の麓。
父方は商売していたので一日と十五日は、
幼い父とお祖母ちゃんとで毎月詣でて居たようだった。
かなりむかしに夢みたいなデータで観た事があった。
山と湖、山脈とマグマ。
陰陽師の事も、
映画や漫画でちらっとみるくらいしかしらない。
日本列島連なる山脈に、それぞれの特性をもった術師が洞穴の中と上に居る。
そうやって往くと、地球の中心の洞窟が間口をあけそうなところで目が覚めた。
陰陽師というと、なんとなく京都というイメージがあるけど、
埋もれた神社や名もなき神社、
祠にそのエッセンスの残留が集まっているように観じてきている。
ピコピコ、チカチカ、チコチコと(笑)
計画の続きには、時代ごとに生まれて来た人材が必要となっている。
その数が一定数に達すると功を奏でる。
それは必要な夢を観る、必要なデータを観た人数、残像の目撃者が必要数揃って、
続きが始まるような気もする。
なんで一気にできなかったのか。
続きが必要ってなんなのか。
それは集中力や、スタミナというのを含めて寿命の事を示しているような気もする。
そしてなんで続きが必要なのか。
人間が生きる為に必要だ、という感覚。
生きている実感が薄いと夢も観れないという具合。
舞台を設置している影武者のような役割でもあるし、
個が個としての認識が追いついていないから、
影が必要になっているようにも見える。影のみの世界。
地球の電源と人間の電源は同じではなくて、
各々の主電源を自分の中に取り戻して往く時期は来ているように想う。
もっとも主電源・本体は人智でコントロールモノではないのだろうけど。
最低限、目の前の事に取りかかれるくらいの意思と決意は、
できるようにしたほうがいい。
だれかのエネルギーに繋がってついて往くとか、
相手の出方を待って便乗して往く事ばかり選んでいたら、
なにも観えていないのと同じで、
身体だけが単に欲求に飢えた動きにしか気が付かなくなる。
それが本当に至福だったら話は別です。
何故、諏訪の陰陽師を想いだしたのか(笑)
今日は佐賀から神様カードの塗り絵ワークショップに参加した、
きららcafeのオーナーさんが来てくれた。
大野百合子さんという方が、神様カードの塗り絵を作ったそう。
その塗り絵カードを観せてもらった時に、弓を引く絵がありそれと諏訪の景色が重なったから(笑)
逆の五芒星、正位置の五芒星。
今までは影武者に支えられてきたけれど、
影武者ばかりが働いているようにも観えて(笑)
実質、生身の身体は多くの情報でパンクしていたり、
参考書に寄せた生き方に寄り添って生きて居たりする。
これはわたしも含めて、そういった傾向がまだあるなと痛感したのです。
歴史のレールから外れるとなると、
それは個人レベルではなく、生態レベルで「おい、押すなよ(ダチョウ倶楽部)」と言いたくなります。
オーバーなのかもしれませんが、
意識の拡張機能が、身体に根付き始めているようにも想います。
だから寿命を超えるような分岐点。
過去を終えた生き方。
未来を終えた生き方。
常にリニューアルされているという生き方。
話が繋がっていないようにも想いますが、一旦終わります。
※内容と画像は関係ありません。