唐突ですが、わたしに未来があると想って居なかった時期がありました。
明日とか含めて未来というカテゴリーに入るのか。
と、その時まであまり先の事とか考えた事もイメージした事もなく。
ただある日を境に「わたしにも未来があるんだ」と衝撃を受けた事がありました。
正確に言えば「この世」「この地上」での未来という意味です。
それまでは孤独な世界というか、それこそ「わたし(こっち)」「あなた(あっち)」という認識が曖昧というか、不完全な感触で探り探り生きて来ていたと想います。
その「わたしにも未来があるんだ」と、衝撃を受けた時に仲間とか、性別とか、
目的とか、親子とか若いとか老いとか、
生と死という臨場感が上がって来たのかなと想います。
ちょうどその頃に甥っ子も生まれたので余計に、
平面感覚だった幼子が立体世界に隆起し始めたという流れでした。
まさに遅咲きの人間界だったのかもしれません。
極端に夢の世界との共振が連続したのもこの頃。
ちょっとだけ幼稚園の時の感覚が、
フラッシュバックのように電気を起こしたのでした。
そう想うと幼稚園時代のわたしは、まだ継続していていなくなったわけではなく、
在り方が違うくなったりするけれども、なにかの衝撃とともにその頃のメモリーが立ち上がって外側の世界を飲み込むかのように回収しはじめて、
あらたな観え方へと進化している。
何も変わってはいないんだけど、
不思議と目の前の鮮度という画質が変わってきたように想う事もある。
各々で堪能する理由。
きょう自分の考え癖にはっとした事があった。
「これやって役に立つのかな」ってやつ。
誰かの役にたつとかでなく、今後の自分の役に立つのかなという事なんだけど。
今後というのも未来枠ですもんね(笑)
ざっと記憶の整理をしてみると、
役に立たない事ばかりして余計な不思議を増やして居る節もある(笑)
役に立つという事も未開なまま今に至るけど、経験って役に立つたたないというその場しのぎの発想ではなく、事実とか実証という意味でリアリティ増しにしてくれる。
現場って(いま身体が所属しているところ)
入れ替わり立ち替わり活動しているから、いつも通りと想って過ごしてしまうと本当にいつも通りの装いをしてくれる。
夢の世界もそうだけど、いろいろと観察して観ると「実はいつも通りではない画面を出しています」という目印や手がかりがある。
記憶とか感覚とか、一回転してからの方が味わい深いのかもしれない。
一巡してから謎が解けるみたいな。
それから改めて人生にとりかかる。
久々によく考えたかもしれない日でした💛
浅草きたらリスボンへ(笑)
昔ながらの洋食屋さん。
かつライスを食べました。油が香ばしくて美味しい。
揚げ物そんな得意ではないですが、お塩とカラシで食べました。
11月に始まる平成中村座の小屋を観にきました。
(現在建築途中)
チケットが取れたので嬉しい。
速く中に入りたい。