先週の原因不明の鳩尾の激痛から1週間。
今日は再検査含め、先週の状況報告みたいな診察でした。
今回も採血あり。
血管が消える、
血管がなくなると言われながら針の動きを体内で観じる怖い時間。
痛くはないんだけど、動きが気持ち悪くて💦
行った病院が紹介制の総合病院だったので、たくさんのお年寄りや怪我人を観た。
前回の点滴中に聞こえてきた患者さんと、お見舞いの人達の話し声。
●●さんは痴呆がひどくなってきたらしいよ。
●●の施設は月いくららいしいよ。
と、余生の過ごし方と他者の状況の話ばかりだった。
人間というくくりの中には寿命というのがあって、
寿命を最大限つかうための方法をいっぱい考えながら生存している。
途切れ途切れに聞きながら「いきてるだけで満点なんだ。」と痛感した。
寿命を全うしようとしている姿勢が健気だと想った。
誰の文句も言っていいし、嫌っていいし、仕事なんてできなくとも、友達がいなくとも、結婚していなくとも、離婚していても、出世しなくとも、好きなヒトなんていなくとも、生きてるだけで満点なんだ。
わかっていたつもりだったけど、もっと今回の事で納得した。
まず生きているだけで合格ラインで、そこからは遊びのふり幅は自由自在。
このベースをもう一度おさらいさせられたようです。
先週は徐々に体温が下がっていった事もあって、
看護婦さん二人係でわたしをさすってくれたりタオルケットかけてくれたり、
ジャケットかけて包んでくれたりいろいろしてくれた。
生きるって個人の一存ではできないんだ。という事が観えた。
半分半分みたいなところがあって、意地や根性論、
精神論では関われない生命の管轄があった。
生命のフロアみたいなのがあって、ひとつひとつのロックが外れれば、
この世のお勤めご苦労さんみたいになってあるような気がした。
ふんわり理解から自覚に転じた。
全部のフロアでOKが出たから移動したという流れ。
もちろんこの生命の全フロアのネットワークが強烈につながっていたら個人の一存でON、OFFはできる。
強烈だと想います。自覚してやる場合は。
人口でつくる地球の周波数の変動で、生命の方向性が個人的な寿命へと繋がっていっているような気がして、寿命の鍵がそれぞれに渡されていっているような気がしている。
それは全フロアの生命の信頼を得られたから渡される鍵という感触です。
生かされているという意味がわかった。
なんで生かされているんだろう。
というのは永遠のテーマなのかもしれない。
身体側、個人的、自我的なテーマ。
ちゃんとわかるまで探す事や、なんでなんだ。
と、いう追求心を働かせて悩み苦しむのも、
いのちを繋いでくれているモノに対しての礼儀だという事。
悩んでいるふりではなくて。
辻さんの何かの本に書かれていた言葉が思い浮かぶ。
「人類よつよくあれ」だったかな。
生きてるだけでつよいですよ。
夢がある、それにむかって頑張ってますなんて最高の事で、それがなくとも最高だ。
どっちにしろどっちを選ぶかは個人のセンス。
生きているうちに選べるモノやコトに繋がる、
そしたらモノもコトも選んだモノを選んでいるコトになっている(笑)
選んだら両者が告白/両想いしたという事。
契約が結ばれたとうこと。
ん、よくわからなくなってきましたが、
選んだらあっちもこっちを選んでいたということ(笑)