こちらに戻ってから地上戦への志向が強まってきている。
オーバーかもしれないけど(笑)
掘り下げる事と、やり続ける事と、繋がってゆくところと。
考えるとイメージは同時に始まっているから、
それをどっちだろうと分けずに受け取ってゆく事だなと想いました。
たぶんこちらで言う考えるって意味は、二元論的な事を示していて。
正解か不正解か、得が損かのどちらかを選ぶ事を考えるという感触。
意識が落ちるか、まっすぐ伸びるかの違いをわかってゆく。
シンパシーが共鳴しているか。
大嘗祭は観ていないんですが、
あちこちで聞く話だととても良かったようですね。
神話が活きている。
続けられているんだという事にリアリティーを観じてしまうところもありながら、
まじでやっているんだなと驚いた次第です。
遠目に観ていた儀式と人間との契約とかまぐあい。
習い事の先生が「日本人はエスパーだと想った」
と、言っていたひとつにこういった事があげられるのかもしれない。
本気でやるって単独始動でなくて、
八百万とそれらと共鳴できるような環境も作ってゆく事も含まれている。
昔はたらいていたところで知り合ったKちゃん。
Kちゃんのお祖母ちゃんが「天皇が人間だった」といって偉く興奮していた。
と言っていたのを想いだしていました。
今から70年、80年くらい前までは人間とは信じていなかったんでしょうね。
凄く不思議な出来事を大嘗祭によって、知ら占められたような気がしました。
生きているのは地上の生物だけではなくて、
肉眼で捉えられない精霊といかに語り合うか、とか、本気でそことコミットしたら本領発揮するんじゃないか人間って。とか。
そんな事を想いながら居たら「金星人の語り」が介入してきた。
とくにこのあたりとは音声のボリュームを絞っていたけど、
あえて聴いてみて良いのかなとゆるまってきている。
各々あるかもしれないけど、何か深く考える時に金星というのはプッシュしてくる。
「かんがえる」というのは治癒力だという。
それは二元論的なやり方ではなくて、深くみつめる事に似ているようで、
出来事を腑にに落とす事で新しい回路が啓かれる。
落とし込むという行為は、
よく第三の目というけどそこに向けられる栄養みたいなもののようだった。
腑に落とすと上がる。
二元論思考の直観が瞬間的で永遠性のないもの。
覚醒とは違うという意味ですね。
wただ瞬間的な直観を連打してゆくと永遠に発展するのかな。
人間的瞬間知るというよりは、
ナマミで永遠性をみつける作業ってときめきます。
人間の身体って動物類なので危機管理能力は常に働いている。
衰えているタイプもあるし、レベルもいろいろある。
これからわたしもいろいろな機能の見直しを行ってゆこうと想います。