前回のblogから2週間経っていたなんて。
特にインプットしながら過ごしていなかったので、抽出する事もないのですが、ここ数カ月ずっと自分の事ばかり考えていた。
そうしたらひょんな繋がりから、交友関係が広がったと言うか、開通したというかw
縁って個人ではコントロールできないんだけど、何が好きかとか、嫌いとか、結局うっすらした好みのを明確にしていく事で、縁の繋がりも太くなっていっているように思う。
今までは無意識で繋がっていた状態でも、無意識だからこそ、あんまり重要視していないとか、大事なポイントが不明瞭で後々、縁が薄くなったりとか。
そうやって巡ってゆくのが縁なのかもしれないけれど、これをもっと自覚的に捉えていった方が、より自分という活用の仕方や、相手との付き合い方や、距離間とかベストになってゆくのかなって思いました。
先日、ひょんな繋がりで出遭った人との会話中、何気にわたしが言ったことが自分でびっくりした。
それが「わたし友達になろうとは思っていなくって」って言葉。
もちろん急に放った言葉ではなくて、ちゃんと文脈があっての事なので、これだけ聞くと「は?」みたいになるんですがw
特に何もなく普通に、今度ごはんいこーって話になったり、自分の本音に近い部分で話していたからか、なんとなく黙認の間柄のような気がしているw
少しだけでも本音とか、曝け出しとかないと、人付き合いって困難だなって思います。
100%曝け出しは自分だけが気持ちよくなってる傾向があるし、100%潔癖モードで来られてもうんざりする。
友達って言葉で片付けられてしまうと、なんとも言えない責任感というか、任務的なモノを課せられているようで、わりと避けていたワードだったんだなって事がはっきりしたのでした。
「友達」って言うだけで、必要以上に繋がってしまう傾向があったり、思った以上に期待している自分がいたり、また期待されている事があったり。
できるだけソロ活動しておいた方が、わたしにとっては生きやすい方法なのだと思っている。
別に好き嫌いで選別しているのではなくて、友達認定になった途端、何して良いかわからなくなるからw
別に何もしなくても良いんだろうけど、友達って概念が強すぎたり、友達って言う表現方法がなにか窮屈な感触でいる。
それだけ概念に支配されそうな、よわよわちゃんっス。
この数カ月、自分にとってちょうどいいを探っていた時期になり、その流れの中で自分という個性なくして、やれる事ってなんだろうと思いながら、初期化している最中になっている。
全メモリーの初期化!って思ってみるけど、残るモノは残っていて、
それはわたしって「個」の好みとは、別の仕組みで求めて居るっていう感触。
それを個の好みでコントロールせず、別の仕組みに乗っかってみたらどうなんだろうか。
と思えるようになったから、何かしらの囚われからは逃れられたのかもしれない。
つづく。
小学校低学年の時に、近所の3,4つ年の離れたやよいちゃんが、わたしに読んでほしいと持ってきた漫画本。
やよいちゃんはちょっと達観したタイプで「怒りの原動力は、、、」「緊張が満タンになると人の五感は」みたいな事とかをずっと言っていた。
今でいう富岡義勇さん的な女の子だったのかもしれないΣ(゚Д゚)
あれからずっと、この表紙がわたしの細胞に組み込まれてったようでしたw
30年以上経っているのに、ぜんぜん色あせない。。。
恐るべし。