昨年から参列させてもらっている了翁禅師の法要。
Mさんの先祖に当たるとの事で、今年も参列させて戴きました。
不思議な縁です。
わたしは九州の長崎なので、
成人してからもほとんど東北の事を知りませんでした。
ただ小学生の時に観たズームイン朝!で盛岡弁を聞いた時にかなりの衝撃でした。
カッコよすぎて痺れた想い出。
今は忘れてしまったけど、ずっと盛岡弁を真似していた時期があります。
あとは金沢明子さんの民謡を聞いて激震(笑)
ほのかな憧れがあったのだけど、場所はどことか考えた事もなく。
今日の法要の中で了翁禅師と長崎、隠れキリシタンとか前回も聞いていたけど。
不思議な縁でわたしもこの渦の中に参加している。
先祖の末端同士は、初対面でも絡む歴史もあったり、
触れ合う懐かしさがあったり。
でたらめに生きているようでも、
こういった縁と対面するとでたらめに生きていないんだなと、
縁の不思議さを痛感してしまいます。
わたし個人のさじ加減というか、コントロールでは知る由もない縁。
だけど、いろんなところの接点を通して合流して往く流れの中で、
本当に活かされるというのは、こういった時に体感してしまいます。
どんな縁を通して、
どんな想いを回収しながら末端を味わって往くか。
こういった縁と正面衝突した時に、
想いだす事や、閃きに似た電流がビリビリ。
了翁禅師は夢で薬の調合を発見した事で巨万の富を得て、
日本各地に幼稚園や学校、大学などを設立していった方のよう。
いろんな流れがあってお坊さんになったらしいけど、
活動の仕方や活躍の仕方は枠を超えているし、
宗派とか職業に拘りもなく全体に貢献している。
それが今でも続いていて後継者とか末裔が引き継いで居たり、
発展させて居たりしていると想うと、
未来永劫という生き方は末端のセンスもだいぶ必要だと想った。
ハイパーなヒトというのは、個人的な生き方を通して未来を創造している。
豊かな暮らしとかの基盤を作ってくれている。
豊かな暮らしって、教育とか暮らしの知恵を残しているというところ。
腐らないモノを残して繋がって居る。
それとちゃんと燃やせるもの(笑)
こういった方は今も生きているという事ですよね。
身体は残らずも智慧を持って現在と繋がって居る。
今年の5月は改めて取り入れる事や、自分を知るという事が多い月だった。
ごく普通の当たり前に気が付けていて、その尊さとか普通は普通ではない事とか。
今までのテンションから、落ち着いたテンションに変化している(笑)
ちょうどいい加減、ベストな状態というのが調律できてきているのかな。
生きているって、不思議ですね。
あまた弥栄で御座いまする。
寛永寺の中庭。
亀有にある狛犬と似ている。
亀と龍が合体した狛亀龍。
帰りに寄ったカヤバカフェ。
だいたい長蛇の列で入った事なかったけど、今日は入れ替わりが良くすぐ入れた。
たまご焼きサンドイッチ💙
ふわふわで美味しかったーーーー( *´艸`)