気が付けば6月も半ばに差し掛かっておりました。
今日はマイケル・ジャクソン日和で、
朝からずっとYouTubeで聞いたり、DVDを観ていた。
6月25日が命日なんですね。
2009年となっていたの(Wikipedia調べ)でもう11年であと少しで一巡りします。
やっと、今いないんだなというのが実感してきています。
買い物行く時に「226」の車のナンバーをよくみるな。
と想っていたらマイケルが亡くなられた時刻が2時26分だそうだ(Wikipedia調べ)
わたしはてっきり226事件の事を家に帰って調べようと想っていたけど、
こちらのマイケルサインとして受け取っておこうと想う。
ここ最近は起き掛けに「人類和合世界平和」と呟きながらおてきてた(笑)
起きて暫くして
「人類和合世界平和」の言葉がわたしの身体に追いついてくるような流れだった。
「寝てる」と「目覚め」の狭間って言語の理解、
意味合いが深いところでは一致しているんだけど、思考レベルでは言葉の表面、
パッケージだけみているような感覚でいます。
言語と意味に時差があるというか、
身体共々起きてから地球ヴァージョンへと変換、入れ替えをしているのかなと想っています。言葉というとなんとなくメロディー的な感触で、言語というと点、独立した音符のような感触。それを麻雀のように並べて言葉化している(麻雀はできません、あくまでもイメージです)
身体と思考と知覚と感情とばらばらなモノを繋いでいる言葉。
言葉に変換できない想いもあるけど、言葉に替えられた瞬間にストレスが減るような気がしています。語れない背景は無理に言葉に替えると安い感じがする。
言葉から想起さられる背景は、各々の体験からくる生々しい実体験を経ての入力と出力のような気がしている。
言葉に替えれたコトで、また更に次のイメージや行動に繋がったり。
言葉にしたコトで更に言葉の奥へと入り込めたり、意味が深まったり、理解が深まる。
音楽を聴いていると、通常想いださない様な想い出や、まったく今までなんとも思ってもいなかった事が想いだされてくる事がある。
縁として認識されてなかった想い出。
いま想いだしても、なんでこれを今想いだしているんだろうと疑問でもあり、
何かひっかっかていたから出てきているんだろうなと想うけど。
いまんとこ、場所、人、性別、時代、性質含めて「縁も観じないし気も合わない」人と出遭うってこともあるんだなというところで腑に落ちている(笑)
もちろん世の中なんて縁でしかないけれど、
それでもその縁で進んでいくのか、共生できる縁なのか、そうでないのか、
の縁分け、気分け的なイメージをもって想い出を愛でている。
15年くらい昔に三軒茶屋でばったり同郷だった男の子と再会した事があった。
中学も別の学校だったけど、通っていた塾が一緒で、友人が好きだった男の子。
なんやかんやでその子のお兄ちゃんの店がうちの近所という事もあり、暫くそこに通って遊んでいた事があった。
趣味とか軽く被るけど気が合うわけでもない。
それを想うと縁はあるんだろうけど、ただそれだけというか、塾でも話した事なかったのになんでここであうのかな。縁はあるはずなんだろうけどそれ以上の何かを観じているわけでもない。そんな事が東京で何度かあった事がある。
始めて就職した先で飲みにつれていかれた先の居酒屋で、幼稚園と中学が一緒だった男の子とばったり再会した。うちの母とその子の母親もお友達同士だったから特によく覚えている。
新宿の交差点で中学の頃の同級生から声かけられたり、
弟の親友や幼馴染と東京で偶然鉢合わせになったり。
田舎では友達でもなかったり、会話すらした事もないのに。
なぜここで、、、合うんだろうと凄く不思議な縁を観じたけど、
それ以上の何かがあるわけでもなく(笑)
縁を深めるか否かはそん時の自分次第だったり、オートマチックに動いている。
縁なんて人知を超えたところだと想っているので、いじりようがないけど濃くするか薄いままか、深めるか継続するか。選ぶのは縁の末端の自分の状態だなと想う。
記憶に残らない縁と残る縁。
生きていると意味の分からない出遭いも多々ありますよね(笑)
記憶にならない縁、時間、人の事を想うとちょっとだけ切ないなと想いながらこの梅雨空を過ごしておりました。
ここで生きる為に、わざわざいま想い出を作っているようだ。